レバレッジド・バイアウト(LBO)と、負債の増加
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アメリカにおけるこうした企業支配関係の変化の多くは、それに関係した企業の金融構造にも大きな変化をもたらした。
企業買収家(乗っ取り屋)や自社株買収に動いた経営者が利用した資金の多くはいわゆる「ジャンク・ボンドjunk bonds」で合った。
ジャンク・ボンドとは、債務不履行になる確率の高い債権であるが、このようなボンドは自己資本に対する企業総価値の比率(ファイナンシャル・レバレッジ)を高めるためにもちいられた。
というのも乗っ取り企業から企業乗っ取りを阻止するためには、企業が自社株を買い占めて市場で公開取引できないようにすることが非常に有効だったので、企業はそれを行った。
そして多くの企業はそのための費用を借入金でまかなったのである。
これを「レバレッジド・バイアウト(LBO)」という。
因みにleverageとは「てこの作用」のことで、LBOは借金をして自己資本比率を上げ「てこ入れ」するということである。
乗っ取り屋の予防防衛も兼ねたストック・オプションや社員持ち株制度(ESOPs)のための自社株取得も積極的に行われ、それも殆どが借入金を用いて行われたので、これらの動きを「借入れによる資本再構成(レバレッジド・リ・キャピタリゼーション)」という。
企業が買収・合併によって姿を消したり、自社株を買い戻したり完全な非公開会社(株式の流通0)に移行したりしたせいで、株主資本は減少し、アメリカの製造部門企業の総資産に対する株主資本の比率は49%から40%に下がった(1980→1989)。
そして1984年と1985年だけで、アメリカの発行済株式の約10%(時価)が回収され、かわりに負債が大幅に増えた。
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ドレクセル・バーナム・ランバート証券の倒産
1980年代のこういった動きの陰の主役は、ジャンクボンド市場の創始者であるドレクセル・バーナム・ランバート証券のマイケル・ミルケンであった。
ミルケンは1970年代末、それまで債券格付け会社によって「不確実で危険」だとされて売り出せずにいた、もう一つ業績の上がらない企業の発行するランクの低い債券(つまりジャンク・ボンド)を、通常の四五倍の手数料を取ることで自分の証券会社で売り出せるようにした。
そういった債券の発行は、資金調達手段に窮していた怪しい会社にとっての唯一の手段であったし、その危険だがはるかに高い利回りは投資家達を魅了したから、ジャンク債市場はにわかに立ちあがり、ドレクセル証券は膨大な利益を得た。
1980年代初めにはジャンクボンド市場は大市場に成長し、普通の優良企業もこの市場を利用して「劣後債(利率は高いが債務履行の順位の低い債券)」を発行しだした。
1982年にはジャンクボンドによるMBO(マネジメント・バイアウト:経営者による自社株買収)資金の調達や、企業乗っ取りのための資金調達も開始され、ドレクセル証券とミルケンは巨大な利益を上げる時代の寵児となった。
だがしかし、あまりにもハイリスクなジャンクボンドの発行は、ついに破綻をきたし始めた。
そしてジャンクボンドの発行を一手に引き受け、市場支配力を独占していたことが逆に災いした。
つまりミルケンとドレクセルはハイリスク・ハイリターンの証券を追い求めた結果、何だかよくわからないキャッシュフローに対しても債権を設定し、それを売り出し始めたのだ。
これは言ってみればもう、マッチ・ポンプ状態であった。
そうして1986年にはインサイダー取引でミルケンの関係者が有罪となった。
そして1988年には政府もミルケンとドレクセルをインサイダー取引や株価操作、証券取引委員会への虚偽報告、記録文書の偽造、詐欺行為、証券法違反の疑いなどで検挙し、結局ドレクセルは破産、ミルケンは禁固十年の判決を受けることとなった(1990年)。
こうして1990年のレバレッジド・バイアウトは前年の十分の一のレベルにまで減少し、それによって借金をしすぎた企業は資産の売却や新株発行などの手段で負債を減らし始めた。
1980年代に始まった大規模な企業買収合戦や企業再編は、そうしてようやく沈静化したのであった。